2020年10月7日水曜日

20201007 光明皇后伝説

今朝の放送朝礼では、南池田小学校の「光」という字がデザイン化された校章の由来から、南池田に伝わる『光明皇后伝説』についてお話をしました。

昔、まだ奈良に都があった時代のことです。

和泉の国の槇尾川のほとりに宮里という村がありました。今の国分町のあたりです。

宮里の奥に瀧山という場所があり、ここで智海上人というお坊さんが一人で仏教の修業をしていました。

毎日ここで過ごしているうちに一頭のメスの鹿が、智海上人の修行のようすを見に来るようになっていました。

ある日、智海上人が修行の合間におしっこがしたくなり木陰で用を足すと、そのメス鹿が近づいてきてそれをぺろりと舐めました。

すると、そのメスの鹿のおなかが次第に大きくなり、やがて赤ちゃんを産みました。

鹿から生まれたのにその赤ちゃんは、かわいらしい人間の女の子でした。

智海上人はその赤ちゃんを抱きあげ、「シカに人の子は育てられないし、私も修行中の身で子どもを育てることはできない」と、村の夫婦に赤ちゃんを育ててもらうように頼みました。

とても可愛らしい赤ちゃんを見て、夫婦は喜んで赤ちゃんを引き取りましたが、この赤ちゃん、姿は人間なのですが、足だけはシカのような足だったそうです。

かわいそうに思った夫婦はその足が隠れるように先が二つに割れた(今でいうところの)クツシタを作って履かせてあげました。

これが足袋の始まりだと言われています。

昔は国分の村で足袋を作っているおうちが多かったのだそうです。


さてそれから何年か経ちました。

奈良の都から藤原不比等というたいへんえらい貴族が、天皇の使いで槇尾山にお参りしたその帰り道、今の和田町あたりを通りかかった時のことです。

田んぼのあたりから何やら不思議なオーラが立ち上り、何かが光り輝いているのを見つけました。

あの光は何だろうと、田んぼに下りて調べてみると、都でも見たことのない美しい少女がいて、そのあたりから光が放たれていたのでした。

この場所は照田光田という地名になったそうですが今はもうその地名は残っていません。

その少女こそが鹿から生まれたあの少女だったのです。

美しいだけでなく、智海上人の教えのおかげでとても頭がよく仏様の教えにもくわしいかしこい子でしたので、不比等はその少女をもらい受け自分の娘として育てました。

明るく光る子ということで光明子という名前を与えられました。

和田町の松源から向こうは上り坂になっていますよね。その坂は女のシカの坂と書いて女鹿坂というのですが、これは光明子が都に旅立つとき、お母さんのシカが見送りに来た坂だということでこういう名前がついているのです。

光明子は宮中にあがって天皇のそば近くで仕えていましたが、やがて天皇に見初められて、天皇のお嫁さんである皇后になりました。

その天皇とは聖武天皇です。

6年生は知っていますね。全国に国分寺国分尼寺をたて、奈良の大仏を作ったあの聖武天皇です。

聖武天皇の奥さんが光明皇后なのです。

天皇家の出身じゃないのに皇后になったのは光明皇后が初めてだそうです。


光明皇后は仏教を大切にする気持ちがとても厚く、自分が育った和泉の国の宮里にも安楽寺というお寺を建て、これがのちの国分町の国分寺になりました。

智海上人が修行した瀧山は当時は薬師堂が建っていたそうですが、今は浄福寺というお寺になっていて、瀧の寺とも呼ばれています。

浄福寺には、智海上人が修行したと伝えられる石の洞穴や、シカが赤ちゃんを産むときについたというシカの蹄のあとが刻まれた石などがあります。

さて、光明皇后がえらいのは天皇の奥さんになったから…というだけではありません。

光明皇后は、天皇のお后になる前から、町の貧しい人や親のいない子ども、また病気で苦しんでいる人を助けるために、悲田院や施薬院という施設や病院を作って食べ物や薬を与え、自分自身も1000人もの病人の体を洗ったそうです。

まだ福祉という考え方がなかった時代に、仏の教えにしたがい、身分の高い人が身分の低い民衆のために、とくに貧しい人や親のない子、病人など弱い立場の人のことを考えて働いたということが本当に奇跡のようにすばらしいことです。

日本で福祉に取り組んだ初めての人と言ってもいい人なのです。


1000人目の病人は、体中にできものができたお年寄りがきたそうです。

光明皇后が体を拭いていると、その病人が「できものの膿を口で吸いだしてほしい」と頼みました。

光明皇后は何事も仏のおぼしめしと心にきめその願いにいやな顔もせず病人のできものに口をつけると、老人の体はまばゆい金色の光に包まれた仏の姿に変わり、天に昇っていったという伝説も残っています。

国分町には浄福寺の近くには「光明皇后誕生所」と書かれた石碑が今もあります。

機会があったら見に行ってみてください。


南池田小学校の校章は、この思いやりにあふれた光明皇后にちなんだものであるということを、みんなに知っておいてほしかったので、今日はこの話ができてうれしいです。

南池田には他にもいろいろな伝説があり、校長先生はまだいくつか知っていますが、すべて南池田に昔から住んでいる人たちに教えてもらったことばかりです。

本やインターネットでは調べられないようなことがほとんどです。

みなさんもぜひ、南池田の昔の話をおじいさんやおばあさんに聞いてみてくださいね。


… というお話でした。

「ぼくは女鹿坂の近くに住んでいるので、今日のお話をしてもらえて嬉しかったです」と言いに来てくれた5年生、「鹿から生まれたって本当ですか」と聞いてくれた1年生など、いつもに増して反響が大きかったので、地域に根差したお話はみんなの心に響くものがあるのだろうなと思いました。

また機会を見つけて、私が地域の人から教わった南池田のお話を届けていきたいと思います。

地域の方も「こんな話があるよ」と教えていただけるとありがたいです。

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