昨年の10月7日の放送朝礼で『光明皇后伝説』のお話をしてブログにも載せましたが、今日の放送朝礼では『谷山池の伝説』についてお話をしました。
光明皇后伝説と同じく南池田小学校のみんなには知っておいてほしいお話なので、今回もブログに残しておこうと思います。
南池田小学校の南に「谷山池」という池があることを知っていますか。
リサイクル公園から青葉台のほうを見たときに見える大きな池です。
この池は自然にできた池ではなくて、700年前の鎌倉時代に俊乗坊重源というお坊さんの働きで作られた池なのです。
奈良の東大寺に奈良時代に作られた大仏があるのですが、この大仏殿が平安時代の末期に火事で焼けてしまいました。
この大仏殿を作り直すために、日本中を歩いてお米やお金の寄付を集めたり、中国に3回も行って当時としては最先端の技術を学んだりしたお坊さんが、この俊乗坊重源さんなのです。
重源さんは全国を回っている中でも、地方の困っている人を救ったり、作物が取れなくて困っている農民を助けたりしていました。
この和泉の国を訪れたときも、今の桑原町観音寺町和田町あたりの土地が夏になると水が足りなくなり田畑が荒れてしまうことを哀れに思い、ため池を作って農業のできる良い土地にしてやろうと、納花町の谷をせき止めて谷山池を作ることにしたのです。
そこで、重源さんは工事用の道具を作る鍛冶屋を四国の讃岐の国(今の香川県)から呼び寄せました。
讃岐地方も雨が少なくお米がとれないことが多いところなので、ため池がたくさんあります。
重源さんはこの讃岐地方に行ったときに、大仏殿を建て直すために集めたお米やお金を分け与えて救ったことがありましたので、讃岐の人たちは「重源さんに恩返しがしたい」と大勢でこの和泉の国まで工事を手伝いに来てくれて、立派な谷山池ができました。
そのおかげで、池の水をひく村々が、日照りの続く夏でも水の心配がなくお米を作ることができるようになったのです。
村人はありがたい重源の姿を石に刻んで重源堂という祠を作り、池のほとりに祀っていました。
今はこの重源堂はリサイクル公園に移されて、谷山池を見守っています。
この時に讃岐からやってきた鍛冶屋さんたちが住んでいた村が、鍛冶屋村となり、今の鍛治屋町になっています。
鍛治屋町に讃岐さんという名字のおうちが多いのは、こういう歴史があったためなのです。
谷山池を作るためにたくさんの鉄が作られましたが、鉄のもとになる真っ黒な鉄鉱石が槇尾川をはさんだとなりの村で採れたそうです。
黒い石が採れるその村は黒石村と呼ばれるようになりました。黒石町の七つ池はその石を掘ったときの名残なのだそうです。
谷山池に関する伝説がもう一つあります。
これは、平成16年に校長先生が讃岐さんの本家の人に直接聞いた話でどの本にも載っていないお話です。
谷山池の水利権といって、池の水を使う権利は実際に谷山池の水を田んぼにひく村がもっていたのですが、谷山池の水をふだん堰き止めている水門を開くのは、代々讃岐さんの本家の役目だったそうです。
水をせき止めている板のことを「樋」といいます。
讃岐の本家以外の人が樋を抜くと、谷山池から竜が出てくるという言い伝えがあって、「谷山池の樋を抜いていいのは讃岐さんだけ」というルールは長いあいだ固く守られていたのだそうです。
時代が進んで、池の管理を役場(今の市役所)がすることになりました。
当然、水の出し入れも役場のお役人がすることになりましたが、鍛冶屋村の人たちは「讃岐と関係のない人が樋を抜いたりしたら竜が出る」と大反対したそうです。
「そんな汽車が東京まで走る時代に、竜だなんてばかばかしい」と役場はその反対の声には耳を貸さず、 谷山池の樋を「えいや」と抜いてしまったのです。 すると、 谷山池の周りの草むらから、何百匹、何千匹かもわからないくらいたくさんのヘビが、あらわれたのだそうです。竜は出ませんでしたが、伝説はあながちデタラメではなかったということですね。
鍛治屋町には他にも伝説があるのですが、今日はここまでにします。
南池田は1300年以上前から村があるたいへん歴史のある地域ですので、国分町や鍛治屋町だけでなく、いろんな町にいろんな言い伝えがあります。
ぜひ総合的な学習などでも調べてみるといいと思います。 これで校長先生のお話を終わります。
これらのお話は、私が南池田小学校で6年生の担任をしていた平成16年ごろ、総合的な学習の時間に村の方々から子どもたちと聞き集めたものなので、史実とは違うところがあるかも知れませんが、伝説として受け止めていただけたらと思います。
こういうお話を、歴史の専門家ではなく、普通の村のおばあさんやおじさんが教えてくれるこの南池田の校区を私はとてもステキだと思います。
ぜひ語り継いでいきたいなと思っているのです。